Leica IIIa, Summicron f = 5cm 1:2, 45color 400
フォトジェニック(photogenic)、という言葉を初めて聞いたのは、ある友人が別の友人の写真を撮っている時の一言だった。彼女いわく、被写体の友人は「フォトジェニック」だから、どうやって撮影しても良い写真になってしまう、と。
photogenicという単語を辞書で引くと、例えばOxford Learner’s Dictionariesでは
looking attractive in photographs (写真で魅力的に見えること)
- I’m not very photogenic. (私はそんなに写真写りが良くない)
- a photogenic child (写真写りの良い子供)
と、非常に簡潔に説明されている。日本語でいうところの、写真写りが良い、とほとんど同じ意味だ。実際、英単語のphotogenicでグーグルイメージ検索をすると、ヒトの顔の写真ばかりが出てくる。
それに対して、日本語で言うところのフォトジェニックは、ヒトだけでなくモノにも使われているようだ。試しにインスタグラムで「フォトジェニック」のハッシュタグを検索すると、ヒトとモノが半々くらい。
写真を撮り始めると、どうしてもフォトジェニックなものを追いかけてしまう。せっかく撮るのだから、カッコいい被写体、感動する風景、素敵な物を撮りたいという衝動に駆られる。事実、自分の写真を見返しても、これでもかと言うくらい、写真写りの良い、フォトジェニックなものだらけである。
でも、ふと冷静になってみると、これは果たして写真を撮っているのだろうか、と感じることがある。誰か他人が(あるいは自然が)作ってくれた美しさを、ただ単にフィルムで(あるいは撮像素子で)コピーしているだけなのではないか、と考えてしまう。
対象がフォトジェニックであればあるほど、撮影者の技量は問われないことになる。なぜならフォトジェニックだから。「どうしたって良い写真になってしまう」のだから。そう考えると、フォトジェニックなモノを撮るのが、少し寂しくなる。
ここから一歩進んで、撮ったことによってフォトジェニックになってしまう、という写真は撮れないものだろうか。つまり、普段は見過ごされがちで絵になりそうにもない、そんなものを、写真というフレームで切り取って、美しさを与える。あるいは美しさを作る。コピーではない表現を目指す。フォトジェニックさに頼らない写真に、少しづつでも挑戦していきたい。